掃除

今、クラスの子ども達と対決している。今日から僕は我がクラスが割り当てられている掃除場所を全て一人で掃除をした。理由は、そうじ当番全員をクビにしたからだ。4月からずっと言い続けてきたにも関わらず、掃除を一生懸命がんばる、という態度が身についていないからというのが表向きの理由。

本当の理由。班で掃除をしているにも関わらず、自分の役目が終わるとさっさと終わってしまう。他の子が一生懸命やっているにも関わらず。いやな仕事は押し付けあう。いつも文句を言わない子がやりたがらない仕事を引き受けている。まだ汚れているところがあるのに、そこに気づかない。要するに、形式的に掃除をして、形式的に終わればいい。そんな雰囲気と考え方が蔓延している。だから、やめさせた。本当の問題点は、掃除をまじめにしないことではない。目的意識もなく、形骸化した作業を、言われるままにこなしているだけの姿勢である。これは、掃除に限っての話ではない。このクラスの児童は、(ひょっとすると、全国の小学生についても言えることかもしれないが)極めて受身的で、自ら考えて行動することが極めてできない。自分で考えなさい、という状況に慣れていない。言われたことさえしていればいいし、それ以外のことは何をすればいいのかわからない。

なぜそれを言わないのかというと、こんなことは言葉で伝えても決して伝わらないことだからだ。「自分で考えて行動しなさい」と言っても、子どもはその言葉を鵜呑みにするだけで、何の解決にもならない。大切なのは、必要性だ。誰も教えてくれない、誰も分からないなかでこそ、「考える」という行為が行われる。だから思う。考えない者に、「考えなさい」という言葉は無意味だ。羽もないのに「空を飛びなさい」と言うのと同じだ。

たかが掃除ではない。こどもたちがそうじについて「考える」ことが、そういった状況の打破につながればいい、そう考えている。だから僕は、明日も一人で掃除をする。明後日もするだろう。今日は彼らはそうじの時間に教室で自分の机に座って待っていた。教室に入ってみると、特にいつもと様子の変わらない児童の姿があった。だからぼくは、いつもどおり5時間目を始め、一日を終えた。ただいつもと違っていたことは、教室の廊下側の窓と扉が閉められていたことだった。きっと、掃除の時間に教室にいることが見られるのがばつが悪かったのにちがいない。

今日は何もなかった。しかし、わずかな変化があった。明日はどうなるだろう。「先生のいいつけを守って」掃除をしない子どもたちに、どんな変化があらわれるのだろう。その日まで、僕は一人で掃除を続けるのだ。