ソウル・フラワー・モノノケ・サミット「歌は人間を変える」

"つづら折りの宴〜わったーしまは わったーがまもる message from Okinawa"
バナナホール

ライブ雑感

沖縄の声を聴いた後は、待ちに待ったソウル・フラワー・モノノケ・サミットだ。2006年ベストアルバムに選んだバンド*1なだけに、期待感は高まる。

大衆音楽、労働歌、壮士演歌、解放歌。これらを現代に蘇らせたモノノケ・サミットの功績は大きい。そして、それを現代的に解釈し、現代に生きる私達の前に提示してみせる。会場は熱気に包まれ、私達を躍らせる。主義、思想はひとまずおき、純粋に音楽としての力強さだけがある。

すばらしい。実に素晴らしい。中川敬の歌声は本当に力強く、やさしい。ソウル・フラワー・ユニオンとはまた違った、いや、表現し得ない力強さがある。

大衆音楽のミッシング・リンク

現代の大衆音楽は、商品である。既製品として、私達の手元に届けられる。私たちはそれを楽しむことができるし、それ以外のシステムを知らない。ライブやコンサートはチケットの争奪戦。しっかりと管理された会場で、ステージと客席とはっきり区別された空間で楽しむ。歌が好きな私たちは、カラオケボックスで流行の歌を熱唱する。

私たちは、音楽を消費する。いつからそうなってしまったのか。

映画や小説の中で見る酒の席。三味線があり、誰かが芸として小唄を歌う。時には流行の、時には即興の。それに合わせて箸で茶碗を叩き出し、誰かが立ち上がり踊りだす。正に「ドンチャン」騒ぎ。祭りの中で歌われる伝承歌。盆踊り。これらはどこへいったのか。

歌は存在する。しかし、いつの間にか、本当に私たちの知らない間に、私たちのものではなくなってしまったようだ。

伝統的な音楽だけではない。友達を遊びに誘う時の「○○く〜ん、あーそーぼー」。じゃんけんのかけ声。「い〜しや〜きいも〜」のような売り子の歌。下品な替え歌。鼻歌。手拍子。うろ覚えの歌詞。誰かに歌ってもらった子守唄。五七五の語感。運動部のランニングのかけ声。歴史の語呂合わせ歌。私たちの生活の中にある音。誰もが気軽に、手軽に楽しめる音。それを聞くだけでワクワクしたり、懐かしくなったり、さみしくなったりする音。それは私たちの音楽だ。しかし、現代の音楽とはあまりにも乖離しすぎてしまった音楽だ。

現在のロックシーンにおいて、その差を限りなく埋めようとする音楽的な試みが世界各地で行われている。モノノケ・サミットは、その流れの一つと言ってよい。この辺りの話は、また別のエントリで述べるとしよう。

歌は自由を目指せ

では、今なぜ、私たちの音楽が必要なのだろうか。

平良夏芽さん曰く、基地建設反対の活動を、米軍は邪魔をしてこなかったそうである。しかし、たった一度だけ妨害が行われようとしたことがあった。それは、去年の「つづら折りの宴」の阻止であったという。座り込みも、反対運動*2も、米軍から見れば脅威でもなんでもない。しかし、たったひとつだけ米軍が恐れたのは、「歌を歌う人が、この問題を取り上げ、みんなの前で歌うこと」だったのだそうだ。

歌は世界を変えることなど無い。誇大妄想である。しかし、歌は聞く者の心を揺さぶる。歌は、人間を変える。そして、何かが変わる。それは、米軍ですら認めるまぎれもない事実である。

だからこそ、歌は私達の手元に無ければならない。歌は、政治からも資本からも自由でなければならない。

*1:新・灰日記 ALBUMS OF THE YEAR 2006 - 新・灰日記

*2:平良さん自身の言葉を借りれば、「運動」はみんなが集まって声を大にしてさけんでよかったね、というだけのもので、中身が無い。だから平良さんは「運動」はしないそうである。