Duty Free Shopp × カクマクシャカ「ウチナー音楽シーン」
"つづら折りの宴〜わったーしまは わったーがまもる message from Okinawa"
@バナナホール
ライブ雑感
ソウル・フラワー・モノノケ・サミットめあてで行ったのだ。「つづら折りの宴」の存在すら知らなかったのだ。じつに参った。予想しなかった濃密な時間を過ごすことができた。まずそのことに感謝したい。
Duty Free Shoppとカクマクシャカは、沖縄のバンドだ。普段の活動とは別に、このようなユニットを組んで大阪へやってきたそうだ。沖縄に関することをはじめとした、己を語る言葉をレゲエのリズムに乗せて語りかける。ラップは普段から耳慣れない。去年聴いたレゲエのアルバムはMatisyahuだけだったなあと思いながら、じっくりと聴かせてもらった。正直に書くと、拙い。
しかし、心に届く何かがある。
沖縄音楽シーン
先日書いたエントリ*1では、「ローカル音楽シーンが確固たる地位を築かないと、音楽はつまらねえ」と書いたわけなのだが、日本の音楽シーンにおいて、唯一「確固たる地位」を持ったローカル音楽シーンがある。そう、言わずもがな、沖縄である。例えば、ロックならオレンジレンジ、HY。パンクならIN-HI、モンゴル800。ポップミュージックでは安室奈美恵、SPEEDらアクターズスクール組。DA PUMPもか。喜納昌吉、BEGINらが奏でる沖縄音楽などは、日本中の茶の間で何度聴かれたことだろう。別に沖縄音楽フリークでもない僕ですら、簡単に彼らの名前を挙げることができることが、沖縄音楽シーンの全国的な浸透を物語る。
なぜ沖縄だけなのか。一言で語ることができるほど単純な答えなど無い。その歴史と現状を知らずして語ることはおこがましいことだとは十分承知だが、敢えて言うならば、彼らの日常の中に音楽があり、踊りがあり、唄があるからだ。それは、名コピー「No Music, No Life」に代表されるような価値観ではない。音楽があるから日常があるのではない。日常の中に音楽があるのだ。飯を食べたり酒を飲んだり風呂に入ったり眠ったりするのと同じくらいの日常性である。泣く、笑う、怒るといった感情。誰が歌っても、誰が踊ってもかまわない。そういう日常性である。
沖縄の日常の一端
沖縄に基地が建設される。普天間から辺野古へ。僕は知らなかった。辺野古からやってきた平良夏芽さんの講演を聴いた。基地建設反対。基地建設は、間接的に世界の子どもを殺すことになる。どこかで聴いたような言葉も、生活の中にその問題があり、だからこそ立ち上がった人間の言葉として放たれることによって命を吹き込まれる。
お題目でも理想でも思想でもない。目の前にある大きな穴のような、具体的な問題がそこにはある。残念ながら、僕達にはそれが見えない。または、見えなくさせられてしまっているのか。ねじれてしまった憲法の解釈は、いつも沖縄からひび割れが始まる。小学生の教科書にも書いてあるんだけどね。「政治とは、住民の願いをかなえるためのものである」と。
音楽も政治も日常の中にある沖縄人が放つ歌が、力強くないはずがない。ローカル音楽シーンが持たなければならない強さは、それなのだと思った。