現代美術考(下書き)

山口長男「劃―赤」との出会い

島根県立石見美術館へ行く。高円宮の根付展をやっていたので、おもしろおかしく拝見した。
そんなことよりも、その隣の「現代美術入門」という展示に強い衝撃を受けた。

現代美術なんて線がいっぱいひっぱってあるだけとか、一色に塗りつぶしているだけとか、とにかくわけがわからない。へーとかほーとかいったため息か感嘆かよくわからない声しか出なかった。

しかし、ひとつの作品の前で、僕はすっかり心を奪われてしまったのだ。
山口長男「劃―赤」という作品である。

一辺が2メートルほどの正方形のキャンバスに、レンガのような赤色が塗り込められている作品であった。よく見れば、その筆遣いや、作品を分割するかのような溝も見て取れる。左端には、黒く塗りつぶされた部分もある。ただそれだけの作品に圧倒され、息をのんだ。目をはなすことができなかった。

芸術鑑賞の過程

そうこうしながらも、「なぜここまで心魅かれるのか」ということをぼんやりと考えてみた。一般的に、絵画に限らず芸術作品と言われるものは、何らかのモチーフを元に創作されるものであろう。私たちがそのような作品を鑑賞するということは、
A(私)→B(作品)→C(モチーフ、対象)
という過程を得ることになる。
ところが、いわゆる現代美術といわれる作品にはモチーフがない(と感じられる。)すなわち、
A→B
という過程で成り立っている。写実的、具体的に描こうとする近代の美術に対して、現代美術が抽象的であるという印象が強いのは、このような構造がそもそも異なっているからであろう。

具体化の限界と抽象化

さらに思考は続く。
物事を具体化してとらえるという作業には限界がある。物事をより細密に、目に映る全てをキャンバスの中に描ききることは、無限に存在する点を無限に描き続けるようなものであり、不可能な事は自明である。そもそも、描かれる対象が自然であれ、人物であれ、作者が感じ取った対象(C)が持つ原初的な感動を表現する事を目的とした場合、必ず作者や作品といったフィルター(B)を通してしか、私(A)はそれを感じる事ができないのだ。近代美術が目指した所は、どれだけフィルター(B)を高感度で、高機能なものにするか、ということだった。

しかし、そのことに限界があることは誰にも分かっているのである。大体そのものを完璧に記述しようとするならば、絵画よりも写真の方が勝っているのだから。ならばと芸術家達が向かい始めたところは、作品の抽象化であった。ピカソを例に出すまでも無く、対象を恐ろしく抽象化する、すなわちフィルター(B)の感度を限りなく落とし、まるでモザイクをかけるように。そのことが逆に、受け手の私(A)の想像力を刺激することになる。抽象化とは、情報を圧縮する事に似ている。そしてその圧縮した情報を丸投げし、受け手に解凍を迫るのだ。この方法が、生の情報をやり取りするよりもはるかに効率的であることは、デジタル化された社会に生きる私たちにとっては既に常識である。

BのC化

まだまだ思考は続く。
現代芸術はさらに抽象化を進めていく事となった。そしてたどり着いたのは、作品(B)の対象(C)化であった。そもそも対象(C)が持ちうる原初的な感動を、作品(B)を介して表現しようとするよりも、対象(C)そのものを作り出したほうが手っ取り早い。キャンバスに描かれた色そのものを感じとる。線のかすれ具合、筆の使い方から作品を読む。無作為、偶然からなる美しさに思いを馳せる。青々とした山々を見て心を洗い、海に沈む夕日に涙し、咲き乱れる野の草に微笑むように、わたしたちはそこにあるものに常に心動かされ続けている。作品(B)の対象(C)化とは、「そこにあるもの」を人為的に作り出してしまおうという試みである。

山口長男の作品は、まさに「そこにあるもの」を作り出してしまったと言える。この作品を前にした時僕が感じた感情は、圧倒的に巨大な山脈を眺めるものに似たものであったのだ。

具体化を笑う

この展示場にあった、杉本博のシリーズ「SEASCAPES」は、カリブ海日本海エーゲ海など、世界の著名な海の水平線を写真におさめたものだ。これらの作品は、タイトルがついていなければ、それがどこの海なのか全く分からない。だってただの水平線の写真だから。そしてこれが、具体化された作品の限界を示しているとも言える。

極限の具体化は、シンボルを嫌う。もし誰もが見てわかる作品にするならば、日本海ならば岩肌を削る荒波を、エーゲ海ならば白い帆を張ったヨットに、白亜の別荘地を、カリブ海ならば、さんさんと輝く太陽と、白い砂浜を写せばいい。しかし、そのような記述はデフォルメに過ぎず、具体的な描写からは程遠い。しかし、今そこにあるものだけをきりとってみても、受け手(A)は困惑するだけである。

杉本の作品は、受け手(A)の持つイメージを破壊する。「これじゃ何もわからんだろ、バーカ」と受け手を嘲笑う。しかし、イメージを壊された私たちが受け取るのは、その各地の海が見せる本当の表情だ。同じ水平線の写真であっても、同じではない。波の立ち方が違う。風の向きが違う。そんな当たり前のことが鮮明に見えてくる。

「そこにあるもの」(C)を、受け手(A)が感じ取る瞬間だ。

現代美術と現代ロック事情

このような考察も、妄想と言われればそれまでだが、実に有意義な時間をすごせたと思う。さらに次に考えていきたいのは、現代のロック、特にアンダーグラウンドシーンでも、現代美術の影響がはっきりと表れているということについてだ。ノイズや、ポストコアなどのシーンで活発な即興性とか。まあ、これについてはまた今度考えるとしよう。はあ、長文は疲れる。