黒田基樹「百姓から見た戦国大名」

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

「民主的戦国社会」
目からウロコとはこのことか。教科書的な戦国時代観で導き出されるのは、戦乱に苦しみ、虐げられる弱者・被害者としての百姓。それに対して本書で示される百姓観は、そのような姿を鮮やかに飛び越えていく。

黒田氏は戦国時代を「日常的な戦争状態」、「日常的な飢餓状態」と分析する。そして百姓を、そこにたくましく生きていくために武器を持ち、村を守り、時には略奪をも行う能動的な主体として描く。自力救済を地でいく彼らは、戦乱を生み出す主体である。戦国大名の存在意義は、そのような不毛な争いを停止し、安定した社会を導くために存在する。戦国大名は、統治するために君臨したのではなく、村を主体とした百姓相互の意思を具現化した存在であった。このような戦国大名観を示すことは、その後の日本社会の成り立ちを考える上で非常に重要なことである。

近世の幕開けとも言える戦国時代は、ホッブズの言うところの「万人の闘争状態」であり、大名は「リヴァイアサン」であった。西洋の思想、そして民主的な政治へと続く門を、この時期の日本がくぐっていたことを考えると実に面白い。そう考えていけば、江戸時代の無戦争状態が200年にもわたって続いたこと、西洋の近代思想をいともたやすく受け入れてしまえたこと、そして、現在の日本社会の構造といった思想の系譜が随分とすっきりしそうである。*1

目安箱の設置、裁判制度の確立など、個人を救済するシステム*2としての戦国大名は、まさに民主的な政治の萌芽とも言える。殺伐とした時代から、人間が人間らしく生きる社会の下地が生まれてくるというのもまた、皮肉な話である。

新たな戦国大名観の根拠として示される資料は、戦国時代を代表する信長、秀吉ではなく、武田氏や後北条氏であることがまた面白い。戦国社会を研究する上で最も豊富な資料が残されているのが、後北条氏のものであるという。逆に、信長、秀吉は領地支配の資料はほとんど残っておらず、その統治の内容はほぼ不明であるという。日本人が好きな歴史上の人物の中でも1、2を争うほどの人気者は、実はよくわかっていない部分も多く、裏を返せば後世の史家達の想像上の産物でしかない部分もまた多いと言えよう。

歴史は、人物を通してみると実に分かりやすく、容易に理解しやすい側面があるのだが、それはまた、現代に生きる我々の常識や視点を歴史上の人物に無意識のうちに与えてしまう危険性がある。歴史を本当に理解するためには、人物ではなく、その時代を支配するパラダイムを理解し、その時代の人々の常識・視点を身につけて事象を見つめるほかない。しかし、輪郭も持たず、漠然と存在するパラダイムをどのように掴むか、または、掴んではなさないための握力を擁するかどうかがこの思考法の容易ならざるところであり、歴史の真実を見つめることを困難にしているに他ならない。

本書はパラダイムを掴み取り、その手の内にある掴み取ったパラダイムを読者にうまく提示し、解説してくれるという点でじつに面白い。久々に良書に出会ったというのが今のところの感想である。

*1:戦国時代から後200年を経て、ルソーを日本人が受け入れたと言う事実に想像をめぐらせるのも面白い。

*2:現在で言うところの個人ではなく、あくまで村を単位としたもの