見えないものと俳句と短歌


今、短歌と俳句の単元に入っている。日本が誇る伝統的な定型詩について、どうしても大事にやっていきたいという気持ちが強いのだが、どの辺りをポイントにしてやればいいのか思いつかず、適当に流して読んで、基本的な知識だけを教えている。はっきりいってつまらない授業をしている。そしてこどもたちは実に正直で、そもそも短歌と俳句は意味の分からないつまらないものという認識を持っている。たしかにつまらんだろうなあ。文語とか出てくるし。音読してみて音の響きのよさを味わおうとか教科書に書いてあるけれど、そんなもん分かるわけないだろうと言いたくなる。詩歌の鑑賞なんて、ある程度の教養と経験がなければ理解できるものではない。すばらしい芸術作品が心を打つのは、私達の心にある「ひだ」にそれがひっかかるからだ。その感触を、私達は「感情」と呼んでいるのではないか。「ひだ」の位置や数は、人によって違っている。そして、常に一定ではなく、経験と教養の積み重ねによって増えていく。「年をとって涙もろくなった」などという言葉はまさにそれを表している。誰かに共感することが自分自身の経験と重ね合わせることによって初めて生まれる感情であるように、芸術作品に触れるということもまた同じであろう。経験と教養によってこそ、私達は感じることができるのである。子どもが感じることができないのは、それらが不足しているからであろう。今の子どもたちからは、どんな作品に触れても、無味乾燥な感想しか出てこない。

大切なのは、作品を感じる力をつけること。すなわち、心に「ひだ」を作ることなのではないか。そのためにはまず、自分達がいかに見えていないか、感じていないか、ということを知る必要がある。

2006-08-28

上のエントリから、人間は、視覚情報から世界を認識しているのではなく、脳内に自らが構築された世界しか認識できていない、ということが分かる。つまり、私達がみているものなんて、所詮そんなもんだということである。まずこれに気付くことが大切だろう。

つい授業の中で、鑑賞ができない児童に、「これはこういうもんだ」と刷り込んでしまう。これだけはどうしても避けたいのである。「知識」だけで作られた心の「ひだ」は、どうしてもいびつになってしまう。次に大切なことは、「経験」、言い換えるならば「生活」によって作られる「ひだ」をどれだけ大切にすることであろう。

いくらこどもが経験と教養が少ないからといって、心がつるつるののっぺらぼうなわけではない。教科書で提示される詩歌のうち、ひとつぐらいは何らかの「ひだ」にひっかかるはずである。そのひっかかったものを、「なんだかよくわからないけれど、心に残ったなあ」だけで終わらせないことが大切なことの三つ目である。

欲を出せば、そこから表現・創作への意欲につながっていくことが望ましい。そして、継続していくこと。心の「ひだ」を増やすため。これが最も大切なことだろう。