算数科研究授業

習熟度別の研究授業。1年目から通算して、3回目になる。われながらちっともうまくなっていないなあ。子どもに対する接し方や、話し方などはそりゃうまくなってるんだろうけど、授業や教材に関する考察や知識が全く足りない。まず、指導案がうまく書けない。大学時代にちゃんとやっておけばよかった。学生時代の唯一の心残りである。指導案がうまく書けないのは、授業の流れを見通せていないから。そして、授業の見通しを持てないのは、児童の実態を把握していないから。

具体的には、まずこの子達に何が必要なのかがうまく見出せない(課題の設定ミス)。見出せないのに教科書にこだわり、「やらなければならないこと」ばかり先行する。そして、課題が見つからないまま「やらなければならないこと」を枝分かれさせ*1、「あれもやってみよう」、「これもいいなあ」と、課題が分散してしまう。いざ授業になっても、こちらの思うように子どもは動かない。そりゃそうだ。この子達を想定して指導案を作っていないから。

結果は散々だった。今までの研究授業の中で最もひどいものだった。結局教科書どおりのことしかできなかったんだから。やってて本当につまらない授業だったし、子ども達も得たものが少なかっただろう。悪いことしたなあ。前日9時過ぎまでかかってやっていた教材の準備も半分以上が無駄になったなあ。指導案製作にあんなに時間をかけたのに、こんな中身じゃ普段の授業と何ら変わりない。

授業後、ほっと一息つきながら、我らが兄貴ことK先生に指導をしていただいた。やはり焦点をしぼれていなかったことはばればれだったようだ。ポイントごとに詳しく具体的に指導していただいた。何より目からウロコだったのが、「なぜそれが子どもにとって意味があるのか」という点に力点を置いておられたところだ。僕らはつい「子どもにとって意味があるからそれをする」と考えがちだが、両者は似て非なるものだ。後者では、こどもに与えるだけで、前者はこどもとともに指導者も考える。考えるから、子どもたちは次の「自分にとって意味があるもの」を模索し始めるのではないだろうか。ましてや、「しなければならないからやらせる」なんて絶対にしちゃいけないことだ。何かを与えることすらできなくなってしまう。

最近つい、そうなりがちだった。授業を進めることばかりに重点を置いていたなあと反省しきりだ。教科書どおりに進めばこれほど楽なことはない。しかし、決して教科書を軽視するわけではないが、教科書どおりにいくはずなんて絶対にない。教科書だけ見ていても駄目だ。同じくらい、こどもを見つめなければならない。

自分は何のためにそれを子ども達に教えているのかを見失うことは、授業とこどもを殺すことになるのだと、強く肝に銘じたい。

*1:考えているときはこれが「発展的な問題」になると思い込んでいるのもまた事実である。