ディア・ドクター(ものすごいネタバレあり)

ディア・ドクターを見に行ってきました。

西川美和監督。前作「ゆれる」も見に行きました。
そん時の感想はこちら。ゆれる - 新・灰日記


無医村だった村にいる医者、井野治(笑福亭鶴瓶)は、村中の誰からも信頼される村の名医。しかし彼は実は無免許医だった――。
冒頭は、井野が失踪して、村人が大騒ぎしているところからスタートする。失踪した井野を追っていく刑事達と、研修医の相馬啓介(瑛太)―病院の院長のボンボン―が赴任してきてからの村での様子とが交互に描写されて、物語は構成されていく。過去と現在とを行き来するものの、話が全く混線しないのはさすが。前半から井野が医者っぽくないそぶりをしたりするなどの細かい演出もあり、井野が無免許医であることは見ている者は誰もが感じ取れる。しかし、そんなことよりも、井野と、村人との心温まるふれあいである。ひとりひとりを大切にして、血の通った医療を行う。研修医である相馬は心打たれ、大学や父親の経営する病院のやり口を批判し、研修終了後はこの地域に赴任したいとも言い出す始末。


映画が始まって、井野が無免許医だと言うことが分かり始めた時からずっと思っていたことがある。

「これ、似たような話がブラックジャックにあったぞ?」*1


ブラックジャックでは、古和先生というお医者が井野にあたる。彼は手術をしたことがなく、患者を前にして、ブラックジャックに無免許医であることを告白する。しかし、ブラックジャックは、古和先生に指示を出し、無事に手術を成功させる。初めての、しかも大手術に、古和先生は逃げなかった。三十年間無医村でひとりがんばってきたという自負なのだろうか。ブラックジャックも、そんな彼に賛辞を送る。かくして彼は、無免許であることを省みた結果、大学で学ぶという道を選択して、物語は終わる。

しかし、井野はちがう。胃がんを患う鳥飼かづ子(八千草薫)を正しく診断できない。そりゃそうだ。彼の後ろにはブラックジャックはいない。結果的に彼は、かづ子を見捨てて逃げるように村を飛び出すのである。


井野がいなくなった物語後半は、かづ子の娘である、医者のりつ子(井川遥*2の心情がクローズアップされる。井野は医者ではなかった。りつ子は医者である。しかし、実の母は医者である自分よりも、そうでない井野を頼りにしていたのである。そんなりつ子は、刑事を前にしてこうつぶやく。「もしこのまま井野が医者を続けていたら、母をどうやって死なせたのでしょうか」と。


古和先生は、制度上の医者ではなかったが、医者としての精神をもっていた。彼は、医者でないことを明らかにした後で、それでも医者になろうとする。りつ子は、制度上の医者であり、医者としての精神ももっている。かれらは、何人もの人々を救ってきたし、これからも救っていくのだろう。しかし、井野はちがう。彼は、制度上の医者ではなく、医者の精神ももってはいない。まして、これから医者を続けていこうという気はまるでなく、そんな彼の態度で映画は締めくくられる。あの終わり方はたぶん賛否両論だと思うが、ぼくはこれでいいと思う。


無医村という「救い」の空白地帯。そして、病院というシステム化された組織内にいる「救い」の空白地帯。かれが埋めようとしたのは、まさにそこである。医療というシステム(医師の倫理も含む)は完璧ではなく、どうしても埋められない部分がある。しかしそれは、非難されるべきものではない。システムが完璧でないことはそれを担う者達の責任ではなく、それをヒステリックに糾弾すること=正しさを追求することに何の意味もない。井野は、そんなシステムを軽々と越えて、患者のもとに飛んでいくのである。たとえ違法であろうと。たとえ全てを失おうとも。


テーマとしては非常に重い。前作では、個人が抱える矛盾点を映画にした西川監督だが、今作では社会が内包する問題点、矛盾点をテーマとしているが、かといって政治的になろうとしない姿勢のせいか、少しさばききれていない感じもした。そのせいか、井野がなぜ無免許であっても無医村で医者を志したのか、というところが非常にあいまいなままである。*3しかし、そういったことを抜きにしても、十分鑑賞に耐えうる作品である。何より、鶴瓶好き、特に、「鶴瓶の家族に乾杯」好きは見ないと損。

*1:http://www.nadeshiko.co.jp/8%206776.html参照

*2:美しかった。

*3:劇中では、香川照之が代弁しているが、あくまでも「代弁」であり、井野本人は口にはしない。