運転免許と自我と占い

今日、運転免許の更新へ行ってきた。待ち時間があまりに長く、その間に思い出したことがあったのでここに記しておこう。

運転免許を取りに行ったときのこと。今から7年前のことである。写真撮影を終え待合席に座っていると、僕の名前が呼ばれ、別室へ通された。「何か悪いことでもしたのだろうか。」と思い当たることの無い悪事を回想していると、一枚の紙が僕の前に提示された。そこには全国の僕と同じ生年月日で、僕と同じ漢字の「だいすけ」さん*1の一覧が印刷されていた。

ざっと十人分くらいだったように思う。その中には全くの同姓同名の「だいすけ」さんもいた。さらに、その一覧には過去に免停を食らったことのある「だいすけ」さん達が並んでいるようだった*2。そのことに気がついて、ようやく事態を把握した。僕は別室に通されて、「あなたはこの一覧の中にある「だいすけ」さんではありませんか?」と尋ねられたのである。もちろん僕は違反はおろか無免許運転もしたことはないので「違います」と答えることができた。

しかしその時僕は、僕と全く同姓同名で、生年月日が同じ人の名前を前にして「これは僕ではありません」と答えることに、わずかながらではあるがためらいがあった。なぜなら、


嘘をついているように錯覚してしまったのである。


幸いにもその一覧には現住所である都道府県名も書かれており、その「だいすけ」さんは僕が行ったこともないような県の住人だったため、僕は明らかにこの人物が僕ではないことを確認することができた。しかし、もしそれが無ければどうか。または、その人物が僕と同じ大阪府在住の人間だったならばどうか。その時僕は、はっきりと「違います」と答えることができただろうか。断定的に答える自信は、今も無い。

自分が何者であるかを他者に示すために、僕らは名前や生年月日、住所、出身地、性別など、様々な属性を用いる。それらを提示することは、ビンに中身を示したラベルを貼ることに実によく似ている。しかし、自分だけの物だと思って使っていたラベルが、実は名も知らぬ*3他者にも共有されていると知った時、今まで自分自身を表していたラベルの意味は崩壊する。

「これは僕なんだけれど、僕ではないんです。」
という論理的矛盾。これがその人物のデータを見つめる僕が陥った錯覚の正体である。アイデンティティとはかくも簡単に揺らぐものであることを知る、実に奇妙な体験であった。この様な現象を何と言うのか気になる。自我のゲシュタルト崩壊とでも呼ぼうか?誰か教えてください。

【以下余談】
話は変わるが、生年月日を用いるタイプの占いというものがある。また、姓名判断という占いもある。生年月日を用いるタイプの占いだと、この日提示された人たちと全く同じ占い結果が出ることになる。また、姓名判断と組み合わせれば、僕と同姓同名で同生年月日の人と、限りなく運勢が同じになるはずである。実は僕は占いなんて全く信じていなかったのだけれど、この体験から、ほんの少しだけ信じるようになったのだ。

この日から約4年後。僕は違反を繰り返して点数が6点になり、違反者講習を受けるはめになってしまった。そう、「免停」である。あの時見た一覧の中に、今度は正真正銘「僕自身」の名前が入ることになってしまったのだ。似たような運勢を持った僕ら「だいすけ」さん達。あの「だいすけ」さんの一覧は、「これからあなたは違反を繰り返す運命にあります」という警告だったのかもしれない。占いもバカにはできないものだ。

ちなみに今日も違反者講習を受けました。少しは反省しろと言いたい。

*1:苗字は違う。

*2:ひょっとしたら免許取り消しされた「だいすけ」さんだったかもしれない。その辺の記憶はあいまい。

*3:いや、「名」は知っているけれど。