eastern youth

「隙間感情」

"極東最前線―巡業〜365 STEP HARDCORE BLUES!〜"
@心斎橋クラブクワトロ

隙間感情

僕は、「泣ける」映画とかが嫌いだ。別に映画とかが嫌いなわけではないけれど、「泣ける」という言葉が嫌いだ。泣くことができるってどういうこと?世の中には泣くことができない人がいるの?それとも、泣くという感情すらコントロールされなければできないということなのか?

喜怒哀楽とはいうけれども、人間の感情はたった4つに分類されない。当たり前だ。しかし、喜怒哀楽を指し示す言葉はあるが、それ以外の感情を表す言葉を私たちは知らない。孤独でひとりぼっちのすがすがしい寂しさを。涙を流しっぱなしで叫び、怒鳴り続けるやるせなさを。微笑みながらも心の奥底でかみしめる悔しさを。バカヤロウとつぶやきながら、虚空を見つめる気持ちを。
私たちは、一言で言い表す言葉を持ち合わせてはいない。
僕は、そんな感情たちを、「隙間感情」と呼ぶ。そして、私たちが隙間感情を表現し、共有する手段は、芸術以外にないと頑なに信じている。

イースタンと僕

吉野寿という男は、現代日本に生きる詩人である。彼ほど隙間感情を表現できるアーティストを、私は知らない。彼は、僕らには決して言い表せない感情を、轟音と絶叫で表現してみせてくれる。彼ら、イースタン・ユースは僕らが言いたくても、叫びたくてもできないことを、僕らに代わって叫んでくれる。

顔がゆがみ、体は傾きながらも、一音一音搾り出すように歌う彼の姿を見ていると、心が震える。いや、思えば10年近く聴き続けてきたイースタン・ユースの歌、体に染み付き、脊髄の中までもその音と哲学が溶け込んでいる。それが震えるのだ。いつでも聴いていたイースタンの曲。最近は、仕事帰りの電車の中で。苦しいときほど震えるのだ。何度も何度も聞き返した曲。それが目の前で繰り広げられるのだ。彼らの叫び、それは僕自身の叫び。楽しいことだけじゃない人生の歌。理不尽と、焦燥と、孤独の歌。彼らが歌にする隙間の感情は、決して彼ら独自の経験や視点から描かれたものではない。誰もが一度は感じたことがある感情である。しかし私たちは、それを表すことができない。叫べない。

そう、日常的にこんなことを叫んでしまうことは、僕らにとってリスクが大きすぎる。だって、朝、学校や職場で、「おはよう、昨日は孤独が織り成す絶望の果てで死について考えてしまったから、あまり眠れなくて今日は調子が悪いぜ。」なんていう人がいたら、嫌だもの。他者とのコミュニケーションにおいては、感情の交換と共有という要素が重要であるが、それは一般的な感情モデル(喜怒哀楽など)が主体と他者とで共有されているから可能であると言える。もし、モデルが提示されていない場合(隙間感情)、良ければ他者から説明を求められるか、悪ければ拒絶。前者は面倒だ。後者は最悪だ。だから、普通は言わない。「おはようございます。今日は寝不足で調子が悪いです。」これだけしか。

でもね、アーティストならそれが許される。だから僕らは夢中になれるわけだ。彼らはいつも、「オレ」を1人称にして歌う。「オレはこうだ。お前達はどうだ?」と。ステージという装置の上でしか成り立たないコミュニケーション。それがアートだと思う。