司馬遼太郎「峠(上)(中)(下)」

峠(上) (新潮文庫)

峠(上) (新潮文庫)

だいぶ前に読んだのだが、ふと思い出したことがあり、考えてみた。
この物語、主人公[[河井継之介]この人物描写が面白い。というより、司馬が好んで選ぶ主人公達(坂本龍馬西郷隆盛土方歳三、秋山兄弟・・・)とは一風変わっている。いや、そうではない。僕自身が、この小説自体に違和感を感じたのだ。その違和感が何かよく分からなくて、ずっと考えていた。その答えが、ある本を読んでいたときにふと思い浮かんだ。


僕は、この河井に共感できたのだ。


司馬文学が好きで、中学の頃からずっと読んでいた。そこで触れる人物達は、一概に魅力的で、優秀な人物ばかりだった。僕はそんな人物に憧れた。憧れと共感は異なる感情だ。僕は司馬文学の中で、初めて共感できる人物にめぐり合ったのだ。

河井は陽明学の徒である。知行合一実学主義というか、実践至上主義というか、自らの心と向き合い、言い換えれば他を省みず、己だけを見つめ、見つめた結果だけを信奉していく。

その中で、若き日の河井がろくに講義にも出ず、課題もこなさず、同じ本ばかりを繰り返し読み続けるというエピソードがある。なぜか。本の内容や、人物の名称を覚えて何になる、私はその中から真理だけを読み取っていくのだ。そう河井は言う。

僕は本の中身を覚えるのが苦手で、実際この文を書きながら、いいかげんな記憶で内容を引用してるなあと我ながら苦笑している。あえて自己弁護するなら、そういうことである。頭から覚えるつもりで本を読まない。メモも取らない。文章に書かれるエッセンスだけを手にすることができればよいと考えている。おおまかな話のディティールをつかんでおいて、必要に応じて組みなおせばよい。つまり、情報の圧縮である。そして、僕の場合、その展開先が「紙」や「言語」ではなく、「行動」や「活動」、すなわち実践が主である。正直に言えば、書いたり話したりすることがあまりうまくないのでそう言い訳している。

あれ。これって知行合一じゃないの?そう考えると、グングン作中の河井に近づいたように思えた。ああ、これが共感の正体か。作中で河井は越後長岡藩の独裁者となっていくわけだが、彼は物を言わずにどんどん行動で示していくものだから必然的に独裁にならざるをえないわけだ。ということは、僕の行く末は独裁者なのか?はて、このままのやり方でいいのだろうか。考えがうまくまとまらないので今日はこれでおしまい。